PPAPを原典にした新しいギャグ - 川越ニューサウンドの2016年

ついにピコ太郎がAppleMusicのCMに器用されました
2016年は昨年までの未解決案件がついに水面にまで浮上しこれらをどう処理したものか
皆がそれぞれ頭を抱え腕組みをしてどうにも動けない状態のまま過ぎ去って行きました
メディアはどうでもいいタレントのスキャンダルをこれでもかとスクープすることでそれらの案件を棚上げしドラッグの使用という公的な問題と不倫という極個人的な問題を同等の罪として扱いタレントがタレントであることに恐怖を覚え創作を二の次に考えまず身の回りをクリーンにすることに躍起になるという事態にまで及んでいます
ですがそれを有り難がって享受してしまう私たちも考えを改めるべきなのです
テレビ番組は相変わらずクイズ番組と雑学番組が人気を博していますがそれと同じくらい良く目にするのが芸能人のプライベートや遍歴を取材する類いの番組です
私たちは脚光を浴びているタレントやクリエイターがどのような人生を送って今に至るのかをまざまざと見せつけられ笑ったり悲しんだり同調するのです
そうすることでいくらか遠い存在だった芸能人というものを身近に感じるという錯覚に陥るのです
ああいった番組で取り上げられるタレントやクリエイターは人並み外れた努力家でありそれを見せられている私たちには到底手の届かない極地へ登り詰めたほんの一握りの人間であることを忘れてはなりません
あれらの番組はその格差を擬似的にでも縮めようとする目論見でつくられているのです
そうすることで有名人を多くの一般人が支えることで栄え続ける芸能界という図式を確立させようとしているのです
私たちは彼らを直接支えていません
支えているのはスポンサーです
私たちはより多くのスポンサーを獲得する為の材料として用いられる数字に過ぎません
いやその数字さえも限られた人に制御され私たちはその統計に加えられているだけです
私たちの1票には決して尊重されるような価値はありません
それは大した考えも持たずに選挙に赴いて軽々しくその1票をよく素性の分からない人間に投じてしまうのと似たようなものです
テレビや政治家にとって最も大事なのはそこに投じられる資本なのです
その他のバラエティ番組を見ていてもあまり関心できないやり取りが多く見られました
それは私が培ってきたテレビのセオリーと今のテレビのセオリーが違うからだと思っていましたがどうやらそれだけが理由ではないようです
そこに出演しているタレントも裏方の制作陣も口を開けばネットが炎上しただのSNSのフォロー数が多いだの少ないだのなんの論証も出来ないインターネットという疑似メディアの情報を推奨し番組中にリアルタイムでその情報を画面に表示したり下手をすると前回の放送後のネット上の反応を次回の放送で話題にしそこにある程度時間を費やすとその反応に対する反応に更にネットが反応するという堂々巡りを目の当たりにもしました
こういった受け手の反応を考慮した末に捻り出された言葉は間違った共有という概念を植え付けられて育った私たちに可もなく不可もなくが一番妥当なのだという奇妙な価値観の形成を促しその壇上にいる人間がジェンダー問題を抱えていようとも外国人と日本人の間に生まれた混血児であろうともそれらはあらかじめアイデンティティを無視した状態でありながら個性として受け入れるという矛盾を孕んだ空洞社会の縮図でありしかしその個性とはその者のオリジナリティではなく分類するための種類くらいにしか思っていない私たちはそれをさもありなんと受け流す事なかれ主義に徹するしかないのです
このような事態はテレビの世界だけでおこっているわけではありません
政治や経済の世界でもそして芸術の世界でも似たようなことがおこっていると言えるでしょう
つまりは今まで作り上げてきたものの価値を下げること無く現代社会にも存続させたいという近代社会の幻想から抜け出せない現状維持という思惑が浮き彫りになっているのにも関わらず私たちもその恩恵にあずかるしかないのだという妥協がこういった空洞社会の形成に繋がっているのではないでしょうか
もっと言うならばこの不毛時代を生き抜く為に私たちは精神的な魔女狩りを繰り返しているに過ぎないのです
もちろん魔女はそこに存在しません
すべてが幻想で擬似的な存在なのです
魔女とは時にはタレントであり時にはゲームの中の怪物であり時にはSNSを炎上させて有名になったと錯覚する愚か者のことです
それらを私たちはテレビやネットで断罪したと思い込むのです
常に魔女を仕立て上げ磔にし火あぶりにすることで自分たちが犯した小さな罪や不勉強さも一緒に灰にしてしまうというのがその真意です
しかしそれらを裁けるのは不祥事を起した本人かモノを作った作者か罪を犯した犯人です
私たちは誰も裁けないしもちろん自分の罪を他人を裁くことで帳消しにすることも出来ません
その小さな罪が左記に述べた未解決案件と一緒に水面を覆い尽くしているとしたら
もう個だの全だのという仏教的な教えさえ文字通り禅問答にしか聞こえないでしょう
全を敬わない個
個の集まりでしかない全
あろうことかこういった個と全が一流の人間になるノウハウとして認められている節さえ感じられます
損よりも得を
献身さよりも賢さを
精神的な豊かさよりも経済的な儲けを
優しさよりも強さを
常にこれらの後者ばかりを求めることで犠牲にせざるを得ないもの
それは譲り合いの精神です
私が外を歩いていて一番強く感じるのはこの譲り合いの精神の無さです
世界的に見れば日本は街の治安も良く公共施設でのマナーも良い方だとされています
だからといって上を目指さなくても良いということはないしマナーを守れていればいいというものでもありません
年越しのセレモニーの為に渋谷のスクランブル交差点を車両通行止めにしてしまうという判断は賢さと経済的な儲けを優先した
まさに臭い物に蓋の原理に則ったものだと考えざるをえません
そこには譲り合いという精神の欠片も無いのだと悟らなければならないのです
個と全に則って考えれば
損をすることで得をし
献身的になることで賢さを身に付けられ
心が豊かであれば自ずと経済も動きだし
優しさが何よりの強さであると知ることが出来るはずなのです
世界というものの歯車は実に単純です
しかしその歯車も一つ噛み合わないだけで止まってしまうのです
人はもっと単純であるべきなのです
ペンをわざわざ林檎やパイナップルに突き刺す必要はありません
ペン1本でも笑いを生み出すことが可能なのです
これはペンです
かつて荒井注は言いました
彼はこの一言で客席の人々を笑顔にしてしまったのです
そこには彼の真理があったからです
単純で真理をついたものをもっと愛するべきなのです
私たちが今愛しているのは無意味なものです
微妙に複雑でいてそこに何の危険もないとわかるもの
そして様々な観点から考察しても何の意味も成さないもの
そこに真理という深みはありません
だから一時的に普及するに過ぎないのです
たとえばPPAPの原典にThis is a Pen!があるように
40年、50年先にPPAPを原典にした新しいギャグが生まれるでしょうか
様々な情報が行き交うこの世の中で
何が正しいのか何が間違っているのかもわからないこの世の中で
残っていくもの語り継がれていくものがあるということ
それを見極める目を持つことが真理を求めるということなのではないでしょうか
さてこの文章は私にとってあくまで音楽活動の中で書き綴られた作品の一つであります
ここに音楽的な意義が見出せるかどうか
それは聴き手の皆様に委ねるしかありません
我が川越ニューサウンドの2016年の活動は唯一代表庭野のソロアルバムリリースのみでしたが
それと同時にレーベル全作品のAppleMusicでの配信もスタートしました
今年は少しでも多くの人の耳に私たちの作った音楽が届くことを願っております





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