shotahiramaのpost punk以降 - 1.000000000000000000...の音響世界

ここに当レーベルの作品や関係者の作品に関するもの以外の批評を書くのは初めてですが、一方的にではありますが、どうしても今後の自分の作品やレーベルの方向性に大きく関わることだと思ったので勝手ながら掲載させていただきます。


Ryoji Ikedasupercodex)によって1(100000…)から0へ還元された音響はshotahirama(post punk)によって再び1(1.00000…)へ増幅された。
しかし再び生成される1はもともとの1とは全くことなる何とも抽象的な音響であった。
それはあるカラー写真画像のコントラスト数値をあげて白黒にしてしまったものをもう一度数値だけ無理矢理下げたような決して元には戻らないノイズの染みのような。
Ryoji Ikedaの近作supercodexのジャケットデザインは作品自体を視覚化したかのように思えるが、実はこの作品以降の音響世界を表現しているのではないか?結果論に過ぎないが、今作を含む氏のDataシリーズ3部作(dataplex,test pattern)のジャケットを並べてみるとそれぞれが次の作品を表しているように思えてくる。
つまり氏は、supercodex以降の電子音響がカオス化することを予見していた、もしくは自身の次回作でカオス化させようと考えていたと推測することが出来る。
ノイズを制御することでテクノが終焉し、エレクトロニカという新しい電子音楽が誕生してから何となく頭の片隅にあったこのカオス化というムードがここにようやく顔を出し始めた。
それは決して理路整然としていない。
無秩序、無作為の中にある自意識とデジタルテクノロジーが織りなす即興物。
ここで音響作家という作り手が従来の作曲から解放されることとなった。
そこにもはや高低域を強調し中域でバランスをとる既存のグルーヴなどは存在しない。
ノイズはノイズとしての機能を失い、ノイズ以外の音色と同等の存在意義を有する。
エレクトロニカはその時点で旧式となった。
そしてメインストリームに君臨し続けたダンスミュージックも一旦退くことになる(これは私の希望である。少なくともエレクトロアコースティックの分野においては一瞬かもしれないが文献上消失するであろう)。
テクノ同様に、それ以前の硬質なビート音楽はもれなく無感動に摂取され、生活音に取り込まれ、つまりは俗世間にまみれていく(俗世間が低俗であると言ってるわけではありません、また新しい音楽が高尚であるというわけでもありません)。
この交代劇における新しいカオスミュージックの重要な点はダンスミュージックではないというところ、さらにテクノにおけるアシッドサウンドに対してのチルアウトサウンドというように、ノイズを同じように制御しているエレクトロニカと相対関係にあるものでもないというところである。
このように音楽の歴史を踏襲するものでありながら、その流れを一度分断してしまっている点において、バロック以来の新しい音響、ハーモニーが作られたとも考えられる
しかしながらshotahiramaのpost punk、次作のClampdownはまだ完全な未知の音響/グルーヴを配したカオスミュージックとは言えなかった。意図的にであろうが、既存の音響やビートが断続的に露見されるような構成になっている。もしかしたら、そうすることによって過去の音楽から未来の音楽への移り変わりを表現しており、またそういった既存の音が素材として活用されていることも種明かしでもするかのように、あえて断片的に0から作られた1を介在させているのかもしれない。そうすることで前者の1と後者の1が明らかに異なるものだということを強調しているのではないだろうか。
shotahiramaの音楽が完全にカオス化したのはその次にリリースされたClusterからである。このアルバムに収録された楽曲郡は全てが同じような構成で、ノイズの道筋が似通っており、それに呼応するエフェクト効果が異なった6曲(6バリエーション)で構成されている。この構成はバッハの平均率クラヴィーア曲集を想起させる。あらゆる調に対してその和音の響きと相対する旋律を編み出し、バリエーション化したように、左記のアルバムも編まれたのではないだろうか。
ところで私はこれらの彼の作品がどこまでフィジカルにコンポーズされているのか知らない。
もしかしたら一音一音キーボードかサンプラーアサインされて手弾きされているのかもしれない。もしそういった方法で作られているとすると話はだいぶ変わって来てしまう。ともすれば私が考えているよりずっとアグレッシブにクラブ文化に根ざそうと意図したダンストラックという可能性もある。ネット上で観れるプロモーション映像からはそういったニュアンスも受け取れる(ライブ時はオーディエンスのことを考えて既存のビートを強調させているのだろうか→オウテカ的な作品とライブの差別化)。
私の言うカオスとはあくまで作者の意図に反したコンピューターがもたらすランダム性やバグ、エラーなど人間が制御できない領域を作曲の方法論に組み込むことで生まれたエレクトロニカ以降のノイズで構成されたミニマルミュージックのことである。それらがある一定のリズム(いわゆる8・16ビート)で統制された時点でどんなに精査されたノイズで構成されていたとしても私の思う新しい音響とはかけ離れた既存のダンスミュージックになってしまう。
この論考は私の推測が多分に含まれているものであり、おそらく彼の音楽を構成するものが完全に作り手の作為的な演奏や編集におけるものではないという前提で語られているということを補足しておこう。
そしてその推測の上で、私がこれまでにレーベル設立時からリリースしてきた2枚のソロアルバムも似たような方法論を導入して制作したこともここに記しておく。
しかしながら、その2枚のアルバムは全く新しい音響作品には至っていない。なぜなら私はその方法論を楽曲のアレンジの一環として採用し、既存の音楽に風変わりな効果をもたらす事を期待していたに過ぎないからだ。その過程で幾度か新しい音響を生み出そうという試みはしたものの、決して受け手に理解されないであろうという懸念から私はその試みを志し半ばで放棄してしまっていた。
現在私はその放棄した試みで新しい作品制作を始めている。
shotahiramaの作品のおかげで、自分のやっていたことを俯瞰することが出来、受け手に理解されるような突き詰め方を模索することが可能になったからだ。
昨今の音響作家の動向を伺ってみるに、彼の作品が評価されたことで、同じような方法論を先送りにしていた幾人かの作り手が私のように再び模索を始めているように感じる。
それらがこの先、どこまで音楽として受け入れられるのか、またそれ以降の音楽にどのような影響を与えるのかわからない。
私のような無名の作家が「これは新しい音楽である」と宣言したところで、私のこれまでの作品同様、耳を傾ける受け手は微々たるものであろう。
だとしても私は彼が打開いた門をくぐり抜け、(本当に存在するのであれば)その新しい音響ムーブメントに少しでも加勢したい思いでいる。
この論考は、奇跡的に私の音楽を批評する受け手が現れてshotahiramaの作品を引き合いに出してくれた時に備えての言い訳のようなものであり、つまりは「私は今後shotahiramaをパクります。」という身勝手な宣言に他ならない。
まだ動き出して間もない音響ムーブメントであるものの、ある時期に一斉に拡散することも考えられる為、早々にこの方法論で制作したアルバムをリリースしたいところではあるが、今月新しいソロアルバムをリリースした上、自身のレーベルのリリーススケジュールの事情を踏まえると、ある程度の時差が生じてしまう事も否めない。
そこで私が考えたのは他のアーティストの楽曲のリミックスをこの方法論でエディットし、ネット上で発表するというやり方である。
頃合い良くその機会に恵まれ、先日13バージョンのリミックスを制作しサウンドクラウドにアップした楽曲群がそれである。
リミックスという制約のため原曲の素材を断片的に残す形になりはしたものの、それ以外は全てノイズをランダムに生み出すエフェクトシステムによる効果音のみで構成されている。
エフェクトシステムと言っても、独自性の高い複雑な装置や自作エフェクトでもなければ、新しくソフトウェアを開発したわけでもない。
出来上がった音に作家ならではの理論もなければ、これといった主張があるわけでもない。
ただただ真似事という言葉が適当であるプロセスを踏んではいるが、それ自体が私の制作論であり、主張であり続けている。
リリースしたところでたいした広報活動もせず、徹底した作品主義を貫き通す、といえば聞こえはいいがこれは私のコミュニケーション障害がもたらす社会不適合という体たらく。
天文学的な確率で誰かの耳に留まることを願ってやまない私は、近いうちに次のアルバムの為に制作した新曲もいくつかネット上で発表することだろう。
断っておくと、これらは新しい音響表現であり、新しい音(音色)ではない。
新しい音など今まで一度も生まれていない。
太古の時代から音は音であり続けている。
私たちはそのアーカイブにダイブして1や0を作っている。